お茶文化の発祥は中国。
紀元前2700年頃、神農(しんのう)が薬としてお茶を発見したのが始まりと言われています。
日本への伝来は、飛鳥時代より始まった遣唐使の派遣により、
遣唐使が中国から持ち帰ったことから日本に広まっていったと言われています。
薬として中国より伝来し、日本でも飲み物として急速に広がり、全国での栽培も広がっていった鎌倉時代。このころ、中国からはお茶を使った遊び「闘茶(とうちゃ)」が伝来しました。この当時、京都で栽培されたお茶を「本茶(ほんちゃ)」、それ以外で栽培されたお茶は「非茶(ひちゃ)」と呼ばれており、味や香りなどで、どちらが本茶か非茶かを当てる遊びが流行っていったのです。高級品であったお茶が一般庶民にも飲まれるようになると、武士や庶民の間でも大流行。次第にギャンブル性を帯びて屋敷まで賭ける者が現れたため、幕府から禁令が出されたほどの流行だったようです。 「闘茶」は現代では「茶香服」とも呼ばれ、宇治をはじめ各名産地でもイベントが開催されています。お茶会など複数人で集まった際に様々なお茶を持ち寄って、香りや味などを楽しみながらゲームとしても楽しんでみては。
「♪ずいずいずっころばしごまみそずい」というわらべ歌が、実はお茶に関係していたことをご存知ですか?歌詞の途中の「♪ちゃつぼにおわれてとをぴっしゃん」でお分かりになるでしょうか。この「ちゃつぼ」は「茶壺」なのです。
その昔お茶は大変な高級品で、江戸時代には京都宇治の名産であるお茶を徳川将軍家へ献上していた歴史がありました。この献上のための行事のことを「お茶壺道中」といい、多くの家来たちが行列をなして行われたといわれています。お茶壺道中は非常に権威の高い行事でもあったため、一般庶民はお茶壺道中の通る街道の掃除を命じられ、通行の際には道を開け、ひれ伏して行列が過ぎ去るのを待たなければなりませんでした。
「ずいずいずっころばし」の歌詞は、そんなお茶壺道中の際の村人たちの様子が描かれており、「♪茶壺に追われて戸をぴっしゃん」の部分は、村人たちがお茶壺道中の際に粗相があってはいけない!と恐れて、家の戸をぴしゃん!と閉めたところ。「何があってもお茶壺道中の間は外に出ない方がいい」とお茶壺道中を風刺したとも言われている歌ですが、お茶と人々の生活が密接に関係していたことがわかる、非常に面白い歌なのです。